世界遺産 栂尾山 高山寺 公式ホームページ

栂尾山 高山寺 とがのをさん こうさんじ
 
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高山寺について
 
概略   国宝・重要文化財   歴史(年表)
 
国宝・重要文化財
 
国宝
 
 
 
明恵は貞応元年(1222)に栂尾へ還住し、最晩年を過ごす。高山寺の後山、楞伽山には、上人坐禅の遺跡(華宮殿〈けきゅうでん〉、羅婆坊〈らばぼう〉、縄床樹〈じょうしょうじゅ〉など)が今も残る。華宮殿の西に二股に分かれた一株の松があった。縄床樹と名付け、常々そこで坐禅入観したという。図上の賛によれば、この絵は縄床樹に座る明恵を描いたものである。明恵の近侍、恵日坊成忍(じょうにん)の筆といわれ、明恵の人となりをよく伝える。背景には松、岩、藤、小鳥、栗鼠(りす)などが配される。肖像画にしては人物が小さく、人と自然とが拮抗しつつ調和している。画面構成が羅漢図に似通い、宋画の影響が見られるという指摘がある。
 
 
 
■石水院
■紙本墨画鳥獣人物戯画 4巻
■紙本著色華厳宗祖師絵伝 7巻
■紙本著色明恵上人像
■絹本著色仏眼仏母像(絵画)
■玉篇(ぎょくへん)巻第廿七
■篆隷万象名義(てんれいばんしょうめいぎ)
■冥報記(めいほうき)
 
 
 
 
 
     
玉篇(ぎょくへん)は六朝期に編まれた中国古代を代表する字書である(全30巻、梁・顧野王編、543年成立)。部首分類体をとり、見出字に対して音と意味を注する。注には先行諸書からの豊富な引用が見られる。学びの根底をなす書物であり、日本の学芸に与えた影響は計り知れない。その写本は中国ではやくに亡び、日本にのみ伝わる。7巻が残存するが、多くは断片で、首尾完存するのは巻二十二と二十七のみである。高山寺本は巻二十七の前半(篇目と糸部270字)に相当し、石山寺蔵の後半(国宝)とあわせ巻の全体を伝える。本文は7〜8世紀に中国で書写されたものであろう。   7世紀半ばに編まれた中国の仏教説話集。吏部(りぶ)尚書唐臨撰。因果応報にまつわる説話を収録して、広く世に行われたが、中国では後に散逸し、日本にのみ残存する。高山寺本は現存最古の写本であり、53の説話をおさめる。包紙に「円行阿闍梨将来 唐人書 建長二年義淵上人注進」とある。円行(えんぎょう)は空海の高弟で、入唐八家の一人。承和5年(838)に入唐した円行が帰朝時に将来した唐人筆の書と伝える。義淵(ぎえん)は明恵近くに仕えた霊典(りょうてん)のこと。建長2年(1250)『高山寺聖教目録』作成に伴う書き入れであろう。
     
 
 
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現存最古の日本製辞書である。弘法大師空海の撰。前半部(1〜4帖)と後半部(5・6帖)に分かれる。前半は冒頭に「東大寺沙門大僧都空海撰」とあり、830年頃に空海が編んだもの。後半は別人による続撰。高山寺本が唯一の古写本である。第6帖末に「永久二年(1114)六月以敦文王之本書写之了」とある。玉篇を下敷きに、その注文を抄録した節略本であり、大部な玉篇の利用に便宜をはかったものと考えられる。玉篇が一部分しか残存しないため、学術的価値が高い。一部にとどまるが上段に篆書の字体を示し、下に隷書を掲げることから、篆隷(てんれい)と名付ける。
 
     
 
 
 
 
 
 
仏眼仏母(ぶつげんぶつも)は三世諸仏能生(さんぜしょぶつのうしょう)の母とされ、仏智を表す。白身、白衣に獅子冠を戴き、大白蓮に座す姿は瑜経(ゆぎきょう)に基づく。画上に明恵自筆の賛があり、和歌「もろともにあはれとおぼせわ仏よきみよりほかにしる人もなし」(原文片仮名)が添えられる。賛に「无耳法師之母御前也(みみなしほうしのははごぜんなり)」とあるように、8歳で父母を失った明恵は、生涯、釈迦を父、仏眼仏母を母として慕った。24歳の明恵は、「形をやつして人間を辞し、志を堅して如来のあとをふまむ」とまで思い詰め、仏眼像の前で自ら右耳を切り落とす。「无耳法師」とはその意味である。
 
 
 
 
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  華厳縁起とも称する。もと義湘(ぎしょう)絵4巻、元暁(げんぎょう・がんぎょう)絵2巻からなり、別筆である。その後損失、錯簡のある各3巻の形態で長く伝えられたが、平成8年(1996)の修理で、義湘絵4巻、元暁絵3巻に改められた。義湘と元暁は新羅華厳宗の祖師である。義湘絵は女人善妙との物語を、元暁絵は王妃治癒の物語を中心に展開する。『宋高僧伝』に基づき、女人教導の目的で、明恵が監修し詞書をなしたものか。両祖師の姿には明恵自身が投影されているといわれる。高僧伝絵の最初期を飾る優品で、宋画の影響が見られる。画中に人物の発言を書き込むこともこの絵伝以前には見られない。
 
     
 
 
重要文化財
 
 
     
嘉禄元年(1225)、高山寺の社中に奉祀された美しい小像である。善妙は「華厳宗祖師絵伝」に見える唐代女性の名。善妙は新羅からの入唐僧・義湘(ぎしょう)に懸想するが、義湘に諭されて改心し、華厳擁護の誓いのもと義湘に助力する。像が捧げ持つのは義湘への所須(必要品)を収めた小筥である。義湘が帰国する際、海に身を投げた善妙は龍と化して義湘の船を守護したという(58頁下図参照)。明恵にとって善妙は仏教を守護する女性の象徴であり、明恵は自ら開創した尼寺を善妙寺と名付けた。   嘉禄元年(1225)、寺の鎮守として、善妙神・白光(びゃっこう)神・春日明神の3社が建立される。8月15日に善妙神像・白光神像が奉納され、翌日、開眼供養が営まれた。それが現存する善妙神像と白光神像である。3社の中央に据えられた白光神は天竺雪山神といわれ、インド・ヒマラヤの神である。梵名、欝多羅神(うったらかしん)。清浄な白身・白衣は雪山を象徴する。十二神の随一であり、3社の上下は、白光神・春日明神・善妙神の順とされた。神像を収める厨子(鎌倉時代)も重要文化財である。
     
 
 
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明恵が動物を慈しんだことは伝記に多く語られ、『夢記(ゆめのき)』にもしばしば動物が顔を出す。幼い日々、亡き父母を慕う明恵は、小動物を見てはその生まれ変わりかもしれないと思い、子犬をまたいでしまった後に立ち返って拝んだという逸話が残る。また後年、夢に「子犬」が現れることもあった(元久元年〈1204〉6月・建永元年〈1206〉正月)。それらと重なり合うような、愛らしい実寸大の子犬の木彫りである。伝湛慶作。明恵が座右に置いて愛玩した遺愛の犬と伝える。志賀直哉は「時々撫で擦りたいような気持のする彫刻」と記している。   量感のある体躯に峻厳な表情を浮かべる。奈良時代末期の作であろう。中心部を木で彫り、その上に木屎漆(こくそうるし)を盛って造形する木心乾漆(もくしんかんしつ)技法によっている。もとは丹波神尾山金輪寺にあった丹波康頼(912〜95、医家)の念持仏と伝える。神尾山には明恵の高弟高信が入り、高山寺と関わりを持った。元来左右に脇侍を伴った三尊像であり、日光菩薩像(重文)は東京国立博物館に、月光菩薩像は東京芸術大学に蔵されている。
     
 
 
 
 
 
 
     
嘉禄元年(1225)、今の金堂の東に建立された鎮守3社(善妙神・白光神・春日明神)は、それぞれ震旦(しんたん)・印度・日本に対応する守護神であった。3社の神前に据えられた3対の獅子・狛犬が現蔵品3種に対応する。無角開口が阿形の獅子、有角閉口が吽形の狛犬である。阿形の洲浜座裏に「嘉禄元年」の銘があり、湛慶の作と伝える。神体である善妙神像・白光神像が小さいため、狛犬も小振りとなっている。   狛犬と同様、阿吽(あうん)形の雌雄1対をなす。耳を立て口を閉じている(吽形)のが雄、耳を寝かせ口を開いている(阿形)のが雌である。雄の額には〓(ほぞ)差しが見え、狛犬同様有角だったのであろう。明恵の春日信仰に基づき、没後3年の文暦2年(1235)、東経蔵(現石水院)に春日・住吉両明神の御形像が安置される。その際に、春日社の神の使いとされる鹿が、狛犬にかえて置かれたものである。膝を折る鹿の姿は、春日社を参詣した明恵に跪いた鹿の逸話(明恵上人神現伝記、春日権現験記絵巻など)を想起させる。類例の少ない動物彫刻で、湛慶作ともいわれる。
     
 
 
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右手に施無畏印(せむいいん)、左手に与願印(よがんいん)を結ぶ。左手首より延びる彩色の幡が特徴的である。彩雲に乗る様は菩薩来迎の姿を描いたものであろうか。寺伝には弥勒菩薩像という。明恵が臨終のしつらえとして弥勒像を安置し、弥勒浄土すなわち兜率天(とそつてん)往生を意図したことも思い合わせられる。明恵の最期の言葉「我戒を護る中より来る」は弥勒が善財童子に告げた言葉であった(華厳経「従浄戒処来」)。   文殊菩薩は明恵と関わりが深い。智慧を象徴する文殊を、明恵は師と仰ぎ大智を乞うた。十代の頃、毎日、文殊五字真言を千返誦して、仏智を得ようとしたと伝える。24歳の明恵は、先述の通り自ら右耳をそぎおとす。その痛みをこらえて華厳経を読むと、虚空に金獅子に乗る3尺ばかりの文殊菩薩が現れたという。文殊菩薩はまた、明恵が敬愛する釈の脇侍でもあった。本図像では若々しい文殊尊が右手に剣、左手に梵夾(ぼんきょう)を載せた蓮華を持ち、獅子の上に座す。五髻(ごけい)に春日五所の本地仏が描かれた春日社の垂迹(すいじゃく)画でもあり、その点も明恵と縁をなす。
     
 
 
 
 
 
 
     
華厳海会諸聖衆曼荼羅(けごんかいえしょしょうじゅうまんだら)とも。縦10、横7に区切られた画面の中央上部に主尊・毘盧遮那(びるしゃな)如来を置き、観音・勢至両菩薩を脇侍として、毘沙門天、持国天を従える。残り61の小区画に華厳経の諸聖衆を描く。高山寺ではかつて、三重宝塔の初層に五秘密曼荼羅、華厳善財善知識図、華厳海会諸聖衆図が飾られ、禅堂院の持仏堂にも同様の図像がかけられていた。華厳教を根本とする明恵の周辺で、この図が重視されていたことがわかる。対となる善財五十五善知識図は東大寺に高山寺本の写しが現存している(重文)。   等身大の明恵上人像である。明恵は寛喜4年(1232)正月19日、住房禅堂院で入寂する。没後、弟子たちは、禅堂院南面学問所の平素上人が座した後障子に明恵の真影を掛け、在りし日のまま日常の奉仕を続けたという(生身供)。『高山寺縁起』に、その真影は成忍が上人の眼耳の寸法までも正確に写し描いた等身大の肖像画であったと伝える。画絹の痛みが激しく、原形を留めないのは、あるいは本図が生身供の対象となった肖像画そのものであり、長く掛け放されたためかもしれない。
     
 
 
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荘厳された宝座上に説法相を結ぶ毘盧遮那如来を主尊とし、右手前に金獅子上の文殊菩薩、左に白象上の普賢菩薩、右後方に弥勒菩薩、左に観音菩薩を配する。明恵が最も重視した仏光観における観想を図像化したものであろう。三重宝塔内にも五聖の木像(寛喜元年〈1229〉開眼供養)が同様に安置されていた。寛喜4年(1232)正月19日、明恵は60歳の生涯を閉じる。臨終の寝所には五聖曼荼羅図(成忍筆)がかけられ、入滅に際して、その図を前に光明真言を唱えたと伝える。成忍筆は残らず、本図は明恵没後、鎌倉時代後期の作であるが、明恵入寂の様を今に伝える。平成17年(2005)、重要文化財に指定された。   春和夜神(しゅんわやしん)は、華厳経入法界品に見える善財童子が歴訪する善知識の一人である。本図は華厳経に「形貌端厳」と表現される夜神の姿を絵画化したものであり、虚空の宝楼閣に座す夜神に対し善財童子が合掌恭敬して立つ。元久元年(1204)、明恵の紀州(和歌山県)での庇護者、多喜四郎重保の妹の一周忌にあたり、明恵は婆沙陀天を図絵する。婆沙陀天とはすなわち春和夜神であることから、あるいは本図も明恵と関わりをもつものかもしれない。
     
 
 
 
 
 
 
     
熊野の本地仏を描いた曼荼羅。平安後期以降、日本の神は仏菩薩が救済のために顕現したものだとする本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が広まり、垂迹画として図像化される。その中に宮曼荼羅と呼ばれる一群があり、春日曼荼羅、山王曼荼羅、熊野曼荼羅が多く残る。本図では胎蔵界曼荼羅の中台八葉院を模した構図の中央に熊野本宮の本地仏である阿弥陀を置き、八葉とその上下に新宮(薬師)・那智(千手観音)・熊野十二所の本地仏を描く。背景には神域の景観として、上に大峯から熊野にいたる山々、下に熊野王子を描いている。   建仁3年(1203)、渡天の志を抱く明恵に春日明神の託宣が降る。春日・住吉の両明神が守護する明恵は、日本に留まるべしというものであった。その後も明神の降臨があり、明神の姿形を示してくれた。そこで、仏師俊賀に命じて両明神の形像を描かせたという。文暦2年(1235)、東経蔵(現石水院)に春日住吉両大明神の形像が安置され、以後尊崇を集めた。本図は成忍が俊賀筆を写し、明恵が神号を加えた原図を室町時代にさらに写したものであろう。
     
 
 
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輪法を手に持ち、細紋入りの法被をかけた椅子に座す。図上に「不空三蔵法師」「大宋張思恭筆」の後人書き入れがある。不空(ふくう、705〜774)は唐代密教の大師で真言宗付法第六祖。不空の弟子恵果(けいか)が空海の師である。空海が入唐中(804〜806年)に得た真言五祖像が東寺に現存する(国宝)。その中の不空像と相好がかなり異なり、不空像と見てよいか疑問もある。張思恭(ちょうしきょう)は宋代の著名な画家で、仮託されることも多いため、そのまま信をおくことは出来ないが、質感表現などに南宋肖像画の特色が見られることから、南宋の図像としてよかろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
     
絵巻から一場面を切り出した断簡である。江戸時代に三宅高信が模写した3巻が全体を伝える。この断簡は巻下第4段に相当し、明恵上人と建仁寺円空上座との対話の場面を描く。脇息を右に置き顔を見せているのが明恵である。円空は栄西の弟子であり、禅定(ぜんじょう)を修すべき様について明恵に問うている。   絵伝記とも。明恵に帰依した北条泰時との法談を中心に構成され、3巻15段から成る絵伝である。詞書は多く「栂尾明恵上人伝」などの伝記系諸本からとっている。本絵巻は近世に原本から模写されたもの。元禄3年(1690)、三宅高信が絵を描き、書家北向雲竹(きたむきうんちく、1632〜1703)の門人13人が詞書を書いたと奥書にある。三宅高信は履歴未詳だが、高山寺に滞在して先哲の名画を模写したと伝える。写真は巻下にあたり、北条泰時が明恵上人の法談を聴く場面。
     
 
 
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右肩の貼紙に「岡屋殿也」とあり、岡屋関白(おかのやかんぱく)、近衛可兼経(1210〜59)であることがわかる。高山寺と近衛家とは縁が深く、兼経の祖父、基通 (もとみち)が明恵に帰依して以来、代々高山寺を氏寺とした。兼経は後援者として高山寺東経蔵の形成を助け、定真(じょうしん、明恵の弟子)のもとで出家した。弟兼平は堂舎を寄進している 。孫の兼教が書写した五部大乗経は今も高山寺の経箱三つをみたす。高山寺対岸の深瀬墓地には兼経、兼平、家基(兼経の孫)のものと伝える墓がある。本画は彩色も一部にとどまる画稿ながら、おもかげをよく伝える。   達磨宗六祖像とも。禅宗の初祖菩薩達磨、二祖慧可(えか)、三祖僧さん(さうさん)、四祖道信、五祖弘忍(こうにん)、六祖慧能(えのう)の肖像画。右下に第一祖達磨と行者(あんじゃ)であった時の二祖慧可を描き、左下には二祖慧可の横に三祖僧さんを描く。以下同様の展開で、連続性を持たせている。右上の達磨と慧可の図は、決意を示すため自らの腕を切り落とした慧可断臂(だんぴ)の場面である。左下に「至和元年(1054)十一月初一日開板」とあり、中国北宋の版本を写したものとわかる。院政期あるいは鎌倉時代初期の書写か。
     
 
 
 
 
 
 
将軍塚は京都東山の山上にある。平安遷都の際、都の鎮護として、8尺(2.4メートル強)の土偶を作り、それに鉄の甲冑を着せ、弓矢太刀を持たせて西向きに埋めたという伝説がある。本絵巻は墨だけを用いた白描で、速く荒い筆づかいの中に流麗さを見せる。上図は工人達が土を運ぶ場面、下図は官人達が出来上がった土偶を検分する場面である。筆者は不明、鎌倉時代初期の作と考えられる。
     
 
 
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明恵は生涯に2度、インドへ渡ることを企てた。準備を整え、旅程表まで作成した。その旅程表が「大唐天竺里程書(だいとうてんじくりていしょ)」である。明恵33歳のころに書かれたと思われる。正月1日に大唐長安を出発し、日に8里余を歩けば3年目の10月10日に、7里であれば4年目の2月20日に、5里なら5年目6月10日の午の刻に摩訶陀国王舍城(まがだこくおうしゃじょう)へ着くと記す。明恵の目には王舎城の姿がありありと浮かんでいたのであろう。「哀々(あはれあはれ)まいらばや」の書き入れが胸を打つ。願い空しく、渡天は結局実現しないが、明恵はこの書を経袋に入れて所持し続けたと伝える。
     
 
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鳥獣人物戯画 栂尾山 高山寺
日本最古の茶園 栂尾山 高山寺
拝観料・拝観時間 栂尾山 高山寺
拝観時間 栂尾山 高山寺
8:30〜17:00
石水院拝観料 栂尾山 高山寺
800円
※紅葉時期のみ
入山料500円
駐車場 栂尾山 高山寺
50台
※11月のみ有料
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〒616-8295
京都市右京区
梅ヶ畑栂尾町8

TEL 075-861-4204
FAX 075-865-1848

お問い合わせ時間
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